ブログを読んでくださる皆様へ

いつも(時々でも、たまたまでも、なんでも笑)、ブログを読んでくださってありがとうございます^^。SNSでの活動?が不精で、実はこのブログが一番高頻度で、「私」をそのまま表現しています。だからもし、定期的にここにご訪問してくださっている方がいれば、すんごくありがとうって伝えたいなと思いまして、今これを書いています。 私の文章って長いからさ笑、最後まで記事読んでる人って…私の親友ちゃんくらいなんじゃないかな。まじで。笑全部読んでるよって方がいれば、ツワモノ認定するんで、教えてください。めちゃ喜びます。へへへ 脱線するけど、私のLINE、心をゆるしている親しい友人には誰に対しても、テキスト長い。この人は特別とか関係なく、基本が長い。(LINEだと字数制限を超えると「つづく」みたいな表記になり、「LINEてこんな機能あるなんてさとみちゃんから長文くるまで知らなかった」と何人の友人から言われたことか。笑) 私の文章表現は、もはやラブレターなんす。あ、繰り返しますが、誰に対しても、です。なので、男性にはなるべく要件のみ伝えようと心がけています。笑 それでね、活字表現って私にとって、とても…心地よく自然なことなんです。 「文才がある」とよくよく言われてきたのだけど、本当は全然そうじゃなくてね。 「フレッシュな感情を、なるべく鮮度そのまま言葉に変換したい」これが私がいつも思っていることなんですね。なので長くなる。くどい文章ではないと思うんですよ。(自分で言うな。ただ、純粋に言葉を通して心の交流を持ちたいんです。言葉というツールを用いて。 「私の声。」というブログにも書きましたが、言葉は人間のみに与えられた、芸術的表現の一つです。それを大切に楽しく、届けたいし受け取りたい。そこに共鳴を感じたい。その願いがいつもあります。 それとよく、「絵は描いてるの?」と聞かれます。この場をかりて大声で答えたい。描いてる!!!!!!笑 だがしかし、私はすごく描き上げるのが遅いのとSNS発信がめんどくさすぎて←、描いていないような印象を与えるようです。汗セルフプロモーションって大事ですね。 この辺りも、したたかに狙わずに柔軟で自由に楽しみながら発信していきたいな、と思っています。てか、それしかできない。いつか無理が来るから。笑 でも計画性とか習慣にするとかってすごく大事ですよね。 もちろん、戦略も大事。見せ方って大事。だけど、私がいつも憧れるのは何かを上手にやりこなしている人じゃないんだな。そういう人は、むしろカッコよくないんだよな。 「うまくやるより、全力でやる」「模範を踏襲するより、奇天烈に自由にやる」 そんな人や物事に、情熱や美を感じるときの高揚感が好き。 これからもっともっとそんな人たちに出会っていきたい。私が私を100%表現している時、それは本来の私で在れている時。そんな時に、同じように本来のその人自身でいられている人と共鳴して出会っていき、そこにこそ生まれるケミストリーを楽しんでいきたい。 今日ブログを読んでくださるあなたにとって、自分らしさ100%を表現できる場や機会は、どこですか?それは、何をやっている時ですか?そこには、どんな人たちがいますか? 私は、等身大の自分らしさ100%をこのブログでも、そして制作を通しても、表現していきたいと願っています。 今日も読んでくださり、ありがとうございます。また今日からよろしくお願いします^^。うん、長いね。文章、長え。笑 追伸!(まだ書くんかい。私のブログ、ブラウザをリフレッシュしてもスマートフォンからだと最新になっていないことが結構あります。ごめんなさい。これどうにかならんか、調べてみます。

美しい人

「きれいな女の人に会っても、ただきれいだなと思うだけで、さして気にもとめないことが多いのに、いっぽう、きれいだとも思わないのに なにか惹きつけられる人がいるだろう。 そしてその人がすばらしい女性だったら、つきあっているうちに、内のほうから美しさが輝いてくるような感じで、ついには、本当にきれいであるような気さえする。 そんな人は、本当に美しい。 岡本太郎」 そう思う。さすが岡本太郎、かぁっくいー。きれいな女の人に会っても、デレデハラハラしちゃわないの?さして気にもとめないことが多いの?へ?正気か?って思う。笑 こんなふうに、人の本質を見出すことができる人間になりたい。こんな視点を持ってる男性(女性も)がいたら、めちゃくちゃかっこいい。そして自分も、知れば知るほど「趣深くて美しい人」として成長したい。 やはり男女問わずに美しい人は、造形美を超えて、味わい深く、知れば知るほどに魅力を内側から放ってる人なんだよなあ。美しいは、興味深い。 「美しさ」の基準はあくまでも主観なので、正解はないのだけれど。でもそこには目には見えないキャッチボールのような交流があるのだと思う。魅力を放つ人と、それを認識し美しいと受け取る人との間に起きる特別な、けれど自然な交流。 それで、きっと気が合うとか、なんか楽しいとか、一緒にいたいとかって、共鳴し合う美的感覚を要に、関係は発展していくのかも知れない。 ちなみに、さすが世界の岡本太郎。彼の選んだ女性はめちゃくちゃカッコイイ。敏子さん。確かに俗にいうきれいな人ではない。←彼女の名言、沢山あるけど一つだけ。(彼女は本を何冊も出されています。) 「素敵な男でなければ、女はつまらない。男をそういう、魅力的な存在にするのは、実は女の働き、役目なのよ。 」 太郎も敏子もどっちもかっこええやないかい。

故人を想う

今日は新月。2月4日(本当の新年)の立春すぎて初の新月。ぅおおおー!ってキテル感覚のある方も多いかもしれないしあるいは心や体調が乱れてる方も多いかもしれない。 お元気ですか?(急に聞くな)そんな昨夜、彼女にすごく励まされた気がしたので今日はそれを分かち合いたいと思います。 その方と出会ったのは、10年以上前になります。 出立ちは華やかで、大御所のような雰囲気もある方なのに、とても謙虚で控えめな女性でした。 あるセミナーの後、「いつもありがとうございます」と言うと、彼女は本当に恥ずかしそうに「やだ私、顔を覚えられちゃったのかしら」とうつむいて笑っていました。 その姿を見て、見た目の華やかさと違い、チャーミングで親しみやすい人柄を感じたあの表情と情景を昨日のことのように思い出します。 彼女は私の一回り以上年上でしたが、私のことを尊敬する/ファンだと言い、本当によくしてくださいました。華道家の師範でもある、彼女の美的感覚や誰に何が似合うかなどのセンスもピカイチで、人を見る目のある、まさに心の純粋な、美しい方でした。誰もが彼女を好きになるような、親しみのある方。。。そして何かとても、表現しにくいのだけど、視える人で、、現に私自身や私に関する色々を感じて?いたこともあり。「○○さんは、あなたに下心があるけど、あなたは本当に気づいていないから気をつけた方がいい」などのアドバイスもあり、それが後日、本当に役に立ったり、、、。 私は彼女のことが大好きで大好きで、私に何かがあったらチャットでも電話でも彼女に相談したり報告したりぼやいたりしていました。その度に、「あなたは最強運持ってるから、何やってもいいのよ。どこ行ってもみんなにモテモテだから、大丈夫よ。」いつもそんなふうに励ましてくれました。 そろそろ連絡したいと思っていた矢先、彼女とはもう会えないことがわかりました。 千代田線の車内でその報せを見た時、涙がとまらず、オフィスに着いた後も、帰宅後も。。 突然の報せだったこともあり、その後、1週間は深い悲しみがありました。 しかし一方で、同時に強く思っていたことは、敏感で感受性が極まりなく豊かな彼女にとってこの世界で生きることは本当に大変だったんじゃないかな、と。そう思うと今ゆっくり幸せに休めていることを安心するような気がしました。(これが他の人だったらそんなふうに思えなかったかもしれないけれど) それも、彼女が「私は今幸せだから、安心して」と、私に言ってくれているような感覚があったというか。。。 ふと、LINEを昨日見返していた時、彼女とのやり取りが目に入り、それを見ていたら彼女が私にこう言ってくれているような気がして、涙がたくさん出ました。「もっと絵を描きなさいよ。私、もっとあなたの作品見たかったんだから」って。華道家として、素晴らしい感性を表現しきれなかったことを、私は彼女との会話から知っています。だからこそ、彼女は「どんどんやりなさい。上手い下手じゃないのよ、あなたの感性を好きって言ってくれる人は必ず現れるから。その人たちを大切にすればいいだけ。絶対連鎖は起きるから。起こすのよ。無限の芸術を、有限に引き下げちゃダメ。」 自分に対する戒めも込めて、当時立ち止まる私と自分を重ねながら励ましてくれていたのでしょう。 生きてるうちに出来ること、それは本当に限られています。それは「自分が」という主語だけでなく、「自分の大切な人が」ということかもしれません。「私も、私の大切な人も、お互いが生きてるうちにできること」それは、本当はそんなにたくさんする必要はなくてあるいは、大それたことなんかでもなくてシンプルに、自分が大切にしていることや楽しみたいことをその人と共に響かせ合うことができれば、それが最高に幸せな瞬間なのだと思います。 その瞬間がたくさん重なり合い続いていく時、きっと私たちは、「今」に没頭できるのでしょう。人生の無駄な心配や後悔、不毛な努力は不要になり、この今を味わって楽しまなくちゃ、って実感するのでしょう。 年齢を重ねれば、周囲の死とも出逢います。それを受け入れる時、そして同時に故人を想う時、彼らは今喜んでいて、自由なのだと思いたいです。自分の悲しみに打ちひしがれるのは、エゴだってわかってるから。(でも寂しいんだけどねーーー) だからこそ、みんなに福音を知ってもらい、そして天国で再会したいと望むのです。 「あのね、一個言わせてほしい。描いてるんだけど、時間かかるの。だから待っててね」

手放すこと、視点をズラすこと、離れること

手に入れるより手放すことの大切さを教えられているので(今も)、それを書いている記事です。 私たちは、人生で何を手に入れるかにとらわれがちである。手に入れたもので自分の幸せを測ってしまう。 実際、私たちはたくさんのことが与えられ、その中で成長し、感謝し、そして自分も誰かが何かを手にいれる助けとなりたいと願い、力を発揮していく循環がある。 でも、すごく思うのは、与えられたものを特別なものとして大切にしすぎるのでもなく当たり前のものとしてぞんざいにするのでもなく、時に手放し、距離をとることの大切さだ。 ある友人が、変な恋愛関係を続けていた。 「自分は将来結婚がしたい。でも今付き合っている相手と性格が合わず将来は考えられないから別れようと思っている。けれど別れたら寂しくて後悔するだろうから別れられない。相手には申し訳ないから別れるべきだけど、自分にとって都合がいいし居心地がいい。恋人がいる方がいないより、つまんなくない。でも別れた方がいいことは分かってる」という状況を3年くらい続けていた。 数ヶ月じゃなく年単位、10代ではなく30代でこの恋愛、という事実に驚く。 この発想と関係とその時間そのものが後悔の対象になると思うのだけど、「別れたら後悔する、なぜなら自分が寂しくなるだろうしつまんないから」という、至極利己的な先立つ後悔の理由と歪んだ孤独に、私は言葉がなかった。 恋愛でこのように自分の利益のために人と付き合うことを3年も続けられる人種に私は出会ったことがなかったので、話すたび理解に苦しみ、何と言ったらいいか本当にわからなかった。そしてその友人の恋人も、マトモではないのだと察した。(フツウ、そんな利己的な男はこっちから願い下げだからだ) この友人にとっては一緒に過ごす恋人が、どんな存在/関係であるかよりも「恋人がいる」という自分のステイタスに依存しているのが、わかる。そしてその依存によって、自分の感覚を鈍らせ、自分の本当の幸せや本当の願いを叶えることを、自分で遠ざけているのもわかった。しかし例えるならば、本人は何か気配には気づいてはいるけれど、はっきりと認識していない、「盲目」であるように思った。上から目線ではなく、心底、可哀想だと感じた。 私たちは何かを手に入れている=幸せであるという錯覚を得やすい。 仕事、子供、配偶者、住居、経験、学歴、環境、財産、恋人、地位、名誉、権力、能力、時間、容姿、、。 事実、前述の通りそこから得られる豊かさによって感謝が生まれたり、人格が養われたり、人に出会い、様々な機会を得たり、人に助けられたり、役に立ったり、という素晴らしさを経験するということは根底にある。 (手に入れているという表現は、必ずしも自分が所有しているということではなく、「自は何者か」を説明する上で表す要素のことでもあり、それによってアイデンティティ(自己認識)を形成していくものでもある。) けれどもそれらは、「自分自身=自分の芯をつらぬき決して揺るがない、一貫性のあるもの」ではない。 で、本題はここからだ。(おそ) 人は似たものを引き寄せるという。(量子力学の話、引き寄せの法則の話は、また今度…) 私は思った。「なぜこのタイミングで、私はこの友人と出会い、この話を何度も何度も聞かされているんだろう?学ぶことはなんだろう?友人の問題ではなく、私個人に対するどんな教えやメッセージがあるのだろう?」 当時、こう思った時、私の中にある明らかに手放すべきこと、離れるべきことをここでもまた認識した。 それは、自分がとても大切にしてきた立ち上げた仕事への思いを手放し、物理的にも離れるということだった。 ーつづく。 (ぁの〜、その理解不能な恋愛と私の仕事に対する思いを同じにしてほしくないんだけどさ。笑 大枠でくくると同じなのでしょう、1,000歩譲って。←)

私の声。

自分の声について、ちょっと書いてみようと思う。私は子どもの頃から声や話し方に特徴があるらしく、人生のいろんなシーンで声について色んなコメントをいただいてきた。 思い返すと、小学生の頃から「可愛い声」と言われていた。同時に「ぶりっ子してる」と言われたのは、この頃から成人して働き始めても変わらなかった。 高校生の頃電車の中で、知らないおじさんに「うるさいんだよ!」という意味だと思うけど「声高いんだよ!ぶりっ子すんな!」と降りる時に怒鳴られたことがある。もちろんこちらは、常に普通に話している。かわい子ぶろうと狙っていない。(他のブログも読んでいただければ、私が「可愛い」を狙っていないことは明らかすぎるだろう。笑) ぼそっと呟く言葉がアニメ声によって、より面白く?聞こえることもあるようで、よく真似されたり、イジられたりしてきた。(これは声に感謝!)私は自分の声が好きでも嫌いでもなく、声によって、多分損をしたことはないと思っているけど、逆に恩恵は…あったのかな?という感じ。褒められることやネタにされることは、たぶん人より多い。 ただ、20歳で働き始めた頃、会社はマナーの厳しい、サービスの最高峰と言われる某外資系高級ホテルだったので喋り方や声の出し方は個別で指導を何度も受けた。 当時の女性のマネージャーが私を気に入らなくて、いじめられてんのかな?と思うほどだった。 個室に呼ばれて発生方法をリピートさせられたり、話し方を何回も直されたり。しまいには、「里美さんの声が可愛いことは十分わかったから、それはプライベート仕様にして、仕事の時は変えて、ね!ここはキャバクラじゃないんだから」と言われて泣いた。「声ってどうやって変えるんですか?」という純粋な問いに対して「その声、今作ってるでしょ?」と言う彼女は、明らかに苛立っていた。 転職して、客先でミーティングが終わった後に「鈴木さん、そろそろ普通に話していいですよ」と言われたり。この時は、同席していた先輩が「いや、彼女こういう声で、普通にこういう話し方なんですよ。笑」とフォローしてくれた。で、これと似たような経験があと3回はあった。 それから(まだある声ネタ。笑)、高校生の頃にアニメとかゲームが好きなグループの女の子に「鈴木さん、進路決まった?」と聞かれ「うん、専門学校に行く!」と答えたら彼女たちは色めき立って、「やっぱり!声優になるんだ!」「すごい!」「おめでとう!!」と。私が訂正すると、とても残念がっていた。「声優になったらいいのに…」と。 あの時、声優目指してたら良かったのかな。笑 新しく友達になる外国人から「このセリフ言って」系はよくある。これは「ぶりっこしてる」と言われてきたのと同じくらいありすぎて、枚挙にいとまがない。 今この歳になり、久々にお会いする人生の先輩方に「話し方も声も落ち着いたね。知性を感じるよ。」と、よく言われる。安心である。笑ちなみに私は、姉2と一緒に住んでいたことがあった時期、彼女と電話で話しているのを聞いた、複数の私の友人たちから一様に質問されたのが(みんな別のタイミングで)、「電話の相手、誰?」「彼氏?」「ストロベリートーク!(驚)」だった。笑心をゆるしている相手に話す私の声は、一層甘かったようだ。 ある女優さんは、顔とは似つかぬガラガラ声が個性として好評らしく、美しい声とは全く言えないけれど、その声が少しでも変わることを恐れて、発声改善のための喉の手術をしなかったらしい。 声は「言葉」という人間のみが使える素晴らしい芸術ツールを扱う大きな一つのパイプであり、表現を司る個性として、大切なもの。自分の声、普段意識することはないけど、これからもニュートラルな気持ちでメインディッシュである「言葉」をのせる器として、大切にしていきたい。 なんとなく、私から出てくる絵の数々は私の容姿の雰囲気より、声の雰囲気に近いイメージのような気もすると、ふと思ったり。 そうそれと、いわゆる見える系の人や、年配の何人かに言われてきたのは、「声に特徴のある人は出世する」「カリスマのある人は声が独特」と。あれ、だから何って話なんだけども。笑大器晩成するってことかな?ははは。 ちなみに二人の姉は顔も声も似ていると言われており、声(喋り方含む)は昔は特に激似だった。(名前も似てる。私だけ全部全然違う。笑)で、その二人の声は割と低くて聞きやすい声。私とは全く違う。 不思議だな〜。

筋トレ習慣は最強習慣の一つ!

2023年、すっごく大変な状況も通りましたが(詳細は12月30日と31日の記事) そんな中でも私を一番支えてくれた存在があります! ランキング形式でご紹介しようと思ったけど、それは失礼なので笑、一つだけ紹介します。 それは〜〜〜〜っ 筋トレでした。 え?って思われる方もいらっしゃるかもしれないけども、本当に。記事一個じゃ足りないくらい。笑 ジムでは多分同じ体型の女性が上げられない重量を上げます。私のトレーニングぶりが多分、「ガチめ」なので「なにかやってましたか?」「競技やってますか?」と聞かれます。 私はスポーツトレーナーになるための学校を卒業していて、卒業後は都内の某有名5スターホテルに併設された高級スポーツジム+スパで、トレーナーをしていました。 学生の頃は入学当初からわかっている卒業課題がありました。それは、器械体操、縄跳び、ウェイトトレーニング、水泳で、規定のノルマがありそれを越えられないと卒業できない、というものでした。 クロールで25メートルも泳げなかった私。もちろん平泳ぎもバタフライも出来るようになるまで本当に時間を要しました。そして何より、100mのメドレー(通称1個メ:バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロール、25mずつ=100m)を1分40秒で泳ぎ終えないと卒業できないと言う謎の試練があり、 その課題をクリアするために、顔を真っ赤にしながらほぼ毎日泳いでいました。 それとプラスして、ベンチプレスやスクワットやデッドリフトも課題があり、(各自の体重に対してそれぞれにMAXの重さが決まる) 華奢で太りにくく、腕が長い私は、骨格的(天性的)にも筋肉が付きにくく、本当に不利で努力に努力を重ねた毎日でした。(器械体操も本当に苦手だった。ボソリ。。) 毎日眠くて電車で爆睡、常にお腹が空いていて、完全にアミノ酸摂取不足だったと思う。笑 で!このしんどい日々を支えてくれたのが、友人たちでした。特にガネは、器械体操を放課後も、つきっきりで教えてくれたり、水泳の練習にも何度も付き合ってくれたり。もちろんウェイトも。ナッチャンは、泳げず+体型が似ていたので、お互いに慰め合い励まし合ってそれぞれの成長を喜び合ったり。 もちろん他の友人たちも、全ジャンルに対して一番劣っていた私(笑)を、気遣ってくれていたような気がするなあ。で、この1〜2年(振り返ると本当はもっと長期で)仕事を通してすごく大変な状況を通っていたのですが、ジムに行って、ベンチ台に寝っ転がり、天を仰いでバーを握ると、当時の記憶がすごく鮮明に思い出されていました。 「サッチャーーーーン!上がる!!!上げろ!出来る出来る!!いけいけー!!」 みんなが私を励ます声。できなかったことが少しずつできるようになり、これが出来るようになったとか、アレをクリアしたとかを報告し合うこととか。根気と継続勝ちすることを経験した日々だったな、と。しみじみと思い起こして、過去の経験が今の私を励ましているような感覚もありました。いわゆる、「青春」と呼べるような華々しい思い出ではなく、(本当にただただ、私は落ちこぼれ枠でしたので、笑)できないことができるようになった数々をあの2年間で経験させてもらい、そしてそこにはいつもすごく親切に助けてくれる友人や一緒に乗り越えようとしてくれる友人がいたことを思い出していました。 キャリアとして、学歴と言えるような学校を卒業してないと思う。今だに「何であなたがあの学校行った?」とか、当時も学校を選ぶ時、高校2年生の時の担任の先生に「さとみ、もっと上の、四年制大学を普通に狙って行けるだろ。後悔しないか?」と言われていたことを時々振り返る。けれど、私はあの学校に通わせてもらえて、あの学校を卒業できて、最善の選択をしたと思う。あの独特な(2年間で、子供向けのキャンプのボランティア活動や、実習での運動指導など含む)経験は、私の中から無くならない本当の財産です。そして、新卒で先輩方をごぼう抜きして予約の取れないトレーナーになれたのは、あの日々があったおかげだと、確実に思います。 筋トレをすると、アドレナリン、テストステロン、エンドルフィン、ドーパミン、セロトニンも放出され、そのどれもがストレスと戦ってくれるホルモンであり、自分を幸せな思いにさせてくれるホルモンです。(ざっくりすぎる笑) トレーニングをすると、すごく不思議だけど、強くなれるような、でも同時に癒されるような感覚を得ます。 昨年は運動習慣を取り戻したことで、本当の自分を取り戻すのにも、かなり役立ったと感じています。 運を動かすと書いて運動。仕事ができる人ほど、定期的な運動をしてセルフケアやセルフコントロールが出来ている人が多いそうです。ちなみに、素直になっていく人も多いようですよ…不思議。(↑米国/英国のデータバンクから、科学的な証明が出ていますね、毎年) これからも、自分の運…と言うか「気」(発しているエナジー)の流れに責任を持ち、それを楽しみながら向上させていきたいです。 2024年は、もっと重量を上げられるようになれたらいいな。(これ以上は、エラーも出て補助が必要になってしまうので難しい…のだけど) それと、驚くほど走れなくなってるので、泳いだり走ったりもしたい!それから呼吸と柔軟性の奥深さを感じているのでそれをもっと実践・特化したい。 私の筋肉も関節も、この1年間本当にありがとう。筋肉の記憶力は最強!そしてジムで出会ったアニキたち、(絶対にこのブログ読んでないけど笑)ありがとう。本当に状況が大変だったから、泣きながらトレーニングしてた日が何度もあったけど、みんな自分に集中してる場だから、その空気感のおかげで何度も気が紛れました。そしてそして、過去の私の記憶と、当時一緒に頑張ってくれた友人たち、本当に本当にありがとう。今でもみんなとあの思い出は私の誇りです。そんなことを思った昨年末でありました。 ー2023年12月末現在 大体の目安(ベルトなし)ースクワット45kg x 6ルーマニアンデッドリフト40kg x 7ベンチプレス37.5kg x 1

ついにやって来たぜ。勝利の女神降臨。

明けましておめでとうございます! 除夜の鐘の意味はご存知ですか?108回鳴らすその鐘の意味には、人間には108の煩悩(自分の内側にあり自分を苦しめる心)がありそれを108回の鐘を鳴らすごとに消し去って、年が明けた時には綺麗さっぱりなくなっている、と言うことに起因してその煩悩も新年と共に明けてなくなりました、おめでとうございます。と言う仏教の意味があるそうです。 昨年気づいたのですが、私は108以上の煩悩によって(?)自分自身を散々苦しめて来たので笑、もうその生き方をやめる宣言をしました。だから2024年は本当の意味で、自分が自由に生きることを実践する年になります。 誰かや何かのために犠牲を払い続け、自分が犠牲を払うからこそ周りの役に立ったり誰かを楽にさせてあげるなんて、(我が子でもないのに…例え我が子であっても)健全な生き方ではないですよね。そもそも。おこがましい。 どんなに近しい身内の間柄でも、志を同じくする仲間でも、きちんと境界線を引き、相手の問題は相手のもの、解決しようとするのは相手の取り組みであって自分のものではない。このことをしっかり認識し、自分の土俵に集中し、それを楽しみたいと思います。 ある時、何年も前ですが私は尊敬する恩師から「勝利の女神」だと言われていました。私と一緒に働くと、必ずいい結果に導かれたり、いい人と巡り会ったり。強運を運んでくれる、と。 今思うとすごくおだて上手な、さすがボスの発言であり、でも実際そうだったところがあると自負があったので素敵な表現だと、嬉しく思っていました。 でもね、私がもし本当に勝利の女神なら、私自身が私を勝たせてあげなくちゃね、どんな時も。他の誰かを勝たせるのはそのずっと後でいい。 神様からの愛も、溢れるほどに受け取りまくっているから周りに流すことができる。噴水のように。自分が受け取れきれずに枯渇しているのに、周りに与えようとするのは自己破産的になっちゃう。 自分のケアより人へのケアが上手とか、やりがいを感じるとか、自分のことは後回しでいいと思ってる人は本当に危険。いつだって、まずは自分に矢印を向けよう。 この1年は、神が造られた私が私を喜び、私に憩い、そして私を100%表現していきたい。そうすることで、もっと自分を大好きになる。 人間が生きる人生の目的は、自分自身をできる限り100%発揮していくこと。どんな時も、どんな環境でも、どんな手段であっても。そうして自分から湧き上がる愛を人と交流させて、新しいケミストリーを生んで、エナジーを溢れさせること。 この目的を実践していきたいと思います。 さあ!2024年は龍の年、スピード重視で行動が大事。私の苦手分野あー!笑いらないものはいつも捨てて、ちゃんと捨てて、軽やかに昇っていきましょう!!!! いつでも、私が私の勝利の女神。

ありがとう、2023年

全然明けてもなく、めでたくもない年末年始のどん底から1年。適応障害で、このままだと長期不安障害になると思い、退職。 控えめに言って、元同僚の自分勝手で人を平気で傷つけても気づかない極度の利己的な事柄の数々に疲弊し混乱していた。(詳しくは前の投稿を。) 「悔い改め(神に向き直って気づくこと)は神様の領域だから、彼が悔い改めるのを待つしかない」と信仰のある先輩に言われ、余計に混乱した。 え、そりゃそうなんだけども。 一般常識に基づくと、誰かが誰かを傷つけたり、間違ったことをしていたらそれに気づかせるよう促したり諭したり、何かしらきちんと働きかけるのに。聖書的解釈では、悪いことをし(続け)ている人をゆるすことがベースにあって、その他のこと(傷ついた人の心や、カオスな状況の整備)は、放っておかれ、後回しなのか?と。 こういった周りの、不誠実で傍観的と思わざるを得ない対応を経験し、それらも含めて私は、この1年間、信仰とは何か、信仰者とは何かを本当に考えさせられた。結論は、別の記事に書くとして、どん底でスタートした1年前から今、どうあるかを記しておきたい。プライベートなことを数々含むので、詳細は端折るけれども、 自分が精魂込めて立ち上げた団体だったけれど、そこから去って本当によかった。少しでも自由になって本当によかった。そして長年、歪んだ聖書観が植え付けられ、それに縛られていたことにも気づいた。(スコトーマの記事が関連する)この大部分は自分の思考習慣や過去の経験に基づくものも大きく起因しており、そこからも激しく学んだ。 6月、個展をさせていただいた。それに向けて絵を描く中で、本当に私自身が油彩を描くことで癒しを経験し、励まされた。背後でたくさんの方々が祈ってくださっていたことを実感した。1月から6月は、本当にひたすら描いていた。とても心地よく幸せだった。表現することの純粋な楽しさと、これを誰が見てくれるんだろうという、未知な出会いを期待するあの感覚は、制作している時にしか味わうことができない、特別なものだと知った。7月以降は、海外への助成金の募集に応募していた。慣れない英語を読み、英語でCV(履歴書)を書き…。自分が自分を助けなくっちゃ、脱出させなくちゃという感覚があった。10月、すぐにでもある国にインターンシップをしに行かないかと言われた。その配慮がすごく嬉しく、それだけでかなり大きく期待と癒しが与えられた。 12月、新しい仕事が与えられ、面白い世界があることを知った。いろんな仕事があるなあと。職業に基線なし。一つに固執しなくてええやん、と。夢がある人たちとも多く出会い、人との出会いって、本当に不思議で尊いなと思った。自分の社会復帰のリハビリにはとても良い機会だと実感している。 また、今まで顔見知りだったあるコミュニティの人たちとも話すようになり、その時間も楽しみで、交流が広がっていることを感謝している。 そして来年、新しい仕事をしようとお声がけを頂いている。親友とLINEでチャットをしていたとき、「1年前はこんなふうになるなんて思ってた?」と聞かれ、迷わず出てきた答えは、「こうなると思えなかったけど、必ず上向くと信じてた」だった。 自分の心も体も元気になり、前というより上を向き、物心両面において上昇していることが、ただただ嬉しい。「働きたい」という思いがまた芽生え、「仕事が与えられている」という両方の状況を心から感謝している。これって当たり前のことじゃないなって。来年はもっともっと絵を描き、発表していく、絵本も作って出す。仕事のオファーを生かして、これまでの経験を活かした仕事もやる。海外に行きたい出たいと言っているけど、それは私の本心かな?どうだろう?移住とかじゃなくて、旅行で沢山の国に行けたらベストっていつも思ってるからその実現に近づきたい。 全てのチャンスに対し、感謝しそこに賭けて取り組んでいく。そして、黙ってすごく支えてくれている母に、2023年、心からの感謝のMVPを贈りたい。 「全身全霊で自分の人生を立て直す」と宣言した1年前の私へ、これからは軽やかに、でもこの宣言は活かしたまま、最良の人生を生きていこう。必死になって与えることより、ただただ、感謝して受け取り満たされながら。昨年とは真逆で、感謝いっぱいに2023年を締めくくれることを全方位に、心から感謝します。

ゆるしと正義と女性たち

今年1年を振り返ると、この1年は自分に対する学びとその収穫がとても多かったとすごく思う。昨年の今頃は、適応障害(原因が明確な鬱症状。鬱病ではない)を既に発症しており、年明け以降も記憶がない。信頼し長年共労していた友人が驚異的な自己中心的人格者であると認識し、長年の忍耐の緒が切れ、これまでの自分の選択は正しかったのか、本当に私の信じている神の真理に則しているものを行なっていたのか、甚だ不安になっていた。 この件については、spiritual abuse という部類に属する話で、日本ではまだまだ取り上げられてないし今後も扱われるのが難しいハラスメント(虐待)に関する話です。(旧統一教会で話題になっていた人々の苦しみは、これに該当する。決して、人間関係の問題ではなく、被害と加害の問題であることを覚えてほしい。) いわゆるパワーハラスメントと掛け合わせて、人の純粋な信仰心を利用し、自分の利益のために人を動かそうとする人が存在する。本人は「自分の利益のため」ではなく、神の栄光のためだとか、人様の役に立つためだと表明している。しかし、苦しむ人の存在を見て見ぬふりをしたり、自分の正当性のために事実を捻じ曲げ平気で嘘をついたり、善悪ではなく自分の損得で物事を判断し、過大な評価を求め、人の気持ちより目標の達成や利益追求に走ることから、究極的な利己的であることは明白である。 私が、いち福音信仰者として、このような経験をしたことをこうして不特定多数(ぁえ?少数?笑)に発信し、文章に残すことを不快に思い、私の信仰やモラルを疑い否定する方もおられることだろう。「人間として未熟である」「まだゆるせてないんだ」「さっさと忘れなよ」「痛々しい」とかなんとか。 私は、そのようなご意見に対して真っ向から反論する。(現に、「彼をゆるしてください」とか「人や教会を見たらあかんよ。神様を見んと。」とか言われたけれど、すごく的外れな助言だ。) 性被害に遭った伊藤詩織さんが、実名で顔も出してその事実の酷さ、また検察や警察の不当な扱い、この世界の傍観的不条理に対し異論を訴えたとき、 多くの人が彼女に対し 「悲劇のヒロインだ」とか「だったらあの時もっとこうできたでしょ」とか「無防備だったからいけなかった」とか…もっともっと酷い言葉をかけて彼女をより一層苦しめた。(これをセカンドレイプと言う。) またあるいは、旧統一教会問題で矢面に立った小川さゆりさんは、不当さを発信し、同じように苦しむ人を救いたいもうこういった宗教は無くして被害者をこれ以上増やしてほしくないと強く願い、ただその純粋な思いだけでメディアに出ていた。けれど、売名行為だとか(一般人で仮名の彼女が何のために売名するのよ?)、悪魔だとか、これまた悲劇のヒロインぶってるなど、散々なこと、しかも関係のない夫の有る事無い事まで言われていた。。 だ!か!ら!(大声)、だからこの世界から、ハラスメントが消えないんだと思う。 なぜ、彼女たちは苦しみを受けた純粋な被害者であるのに、その経験を黙っていろと言われなくてはならないのか? なぜ、黙っていることが慎ましく賢く思慮をわきまえた人格者のようにみなされるのか? なぜ、事実を知ってもらうことで、どこかに存在するこういった被害者が「自分だけじゃない」と思えるチャンスや存在を消そうとするのか? なぜ、平和を求めて人々の道徳心を活気させ、悪に蓋をせず、正義を唱える人を容易く非難するのか? なぜ、人が人にゆるしを強要し、自分にだって非があるじゃん、と言えるのか? これらの「なぜ」に対して一つ思い浮かぶ答えは、人の気も知らずこういうことを平気で思えてしまう人は、きっと、本当のゆるしを経験していないのだと思う。ゆるされるという稀有なあわれみも、ゆるすという勇敢な神秘も、味わったことがないのだ、と。 被害に遭っている彼女たちのしていることは決して、復讐ではない。そんなみみっちいことのためにあんな馬力を発揮し、人生の多大な時間を費やす犠牲は払えないだろう、どう考えても。ゆるせていないとか、そんな次元ではない。社会に対して、人間の公正と平等と平和と正義を訴えたい、と言う切実で強固な情動があるのだろう。 私はこのような人々の犠牲を伴う正義を考えるとき、そこにこそ、神の真実さを見る。ゆるしの神である一方で、そのゆるしが深ければ深いほど、正義は真っ当で正しいはずであり、それを徹底的に示されるのが神であるはずだ。 今、香港人の周庭さんが香港当局から指名手配をされている。彼女の場合は暗黙の被害者であり続けている。言論の自由と真実を社会に訴えて非難され、犯罪者扱いをされ、亡命するなんて。 そして、どの人たちも女性である。(故意的に女性をピックアップしたわけではない。)古来から続く、歪んだ男尊女卑思想は、罪と共に人間に組み込まれたDNAのようである。 …この記事の結論は、私が受けたことや感じたことも、地味に地道にここに記していく、その表明です。なぜならとても衝撃的な経験だったので。同時に誤解されやすい事実だから、自分の活字で残しておきたい。そして願わくは、同じような葛藤を持つ人の目に、いつか留まることができたら。。。 それから、福音信仰者として、間違っていた自分の大きな罪についても記していきたいと思う。読んでくださる方々と、ただ純粋に信仰とは何か、信じるとはどんな意味を発揮するか、そしてそれを守り生かすことは何なのかを分かち合いたいと願っている。

ザカリヤ「神は覚えておられる」

クリスマスの主役はイエスキリスト。どんな映画にも名脇役がいるように、クリスマスの物語にも、素晴らしい脇役が登場します。けれどその人生を生きた彼らにとっては、自分自身が主人公。そしてそのどれにも、神様の素晴らしい約束が隠れています。 「マリアの受胎告知」は絵画を通してもよく知られていますが、 その前に登場する、自分の妻の受胎告知を天使から受けたおじいさんのお話しはあまり知られていないかもしれません。 ザカリヤという年老いた祭司について。 その前に、、、ーあなたは、願ったこと、祈ったこと、全部諦めずに神様に期待し続けていますか?ー… 祭司であるザカリヤは、神殿で仕える働きに選ばれました。これは一生に一度あるかないかの光栄な仕事です。 神様は老祭司ザカリアを選び、その仕事の最中に「恐れることはない。あなたの願いは聞き入れられた…」と、天使ガブリエルを通してザカリヤに語られました。 「恐れることはない。ザカリヤ。あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベツは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(ルカ1:13) これに対してザカリヤは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えます。この反応は疑いであり、喜びよりも不信です。 「何によって」とわかりやすい証拠をすぐに求め、叶えられない理由を挙げました。 子供が生まれない家庭は蔑まれる厳しい文化の中で、彼とその妻は、社会的に何年も何十年も苦しんだことでしょう。しかも祭司職に就く彼にとっては、周囲の人々から「祭司なのに子が与えられないなんて、他に何か悪いことをしたんじゃないか」など、陰口を言われていたことでしょう。 きっとだからこそ、これまで何度も熱心に捧げた「子をお与え下さい」という期待の祈りをすっかり忘れ、諦めてしまっています。今、祈りの実りが訪れようとしているのに、当のザカリヤは、あまりにも常識的、人間的な判断で御言葉の約束を理解しようとします。 「ザカリヤ」という名前の意味は、「神は覚えておられる」。 神に祈ったことや、自分の願ったことさえ、忘れて諦めているザカリヤ(私たち)の代わりに、神は覚えておられるといいます。 神様は私たちの祈りを全部覚えています。 それどころか、子供の頃にぼんやり思った願いや、日々のつぶやきや、嘆きをも。 でも、自分の経験と世間的な思想や物差しで現実を理解する私たち。 神様はこう言います。 「わたしの言葉は、時が来れば必ず実現する」と。 「覚えておられる神」であるが故に、私たちのことを決して忘れず最善の方法で最善の時に、愛なる神は必ず応えてくださる。 その「時」は私たちにとっては遅いと思えても、そこに叡智なる最良の恵みが隠されています。 このクリスマスへ向かう期間(アドベント/降待節)に、過去に願ったこと祈ったこと…それらをもう一度思い出して、神様に呼びかけ祈ってみるのはどうでしょうか🎄🌟🕊✨ そして今日は太陽の復活日とも言われる冬至です。クリスマスと冬至は歴史的文化的に、深いつながりがあります。1年を振り返り、不要な思い、習慣、関係、物は、さっぱり断ち切って、新しくされる喜びに向けて歩み出しましょう〜♪