筋トレ習慣は最強習慣の一つ!

2023年、すっごく大変な状況も通りましたが(詳細は12月30日と31日の記事) そんな中でも私を一番支えてくれた存在があります! ランキング形式でご紹介しようと思ったけど、それは失礼なので笑、一つだけ紹介します。 それは〜〜〜〜っ 筋トレでした。 え?って思われる方もいらっしゃるかもしれないけども、本当に。記事一個じゃ足りないくらい。笑 ジムでは多分同じ体型の女性が上げられない重量を上げます。私のトレーニングぶりが多分、「ガチめ」なので「なにかやってましたか?」「競技やってますか?」と聞かれます。 私はスポーツトレーナーになるための学校を卒業していて、卒業後は都内の某有名5スターホテルに併設された高級スポーツジム+スパで、トレーナーをしていました。 学生の頃は入学当初からわかっている卒業課題がありました。それは、器械体操、縄跳び、ウェイトトレーニング、水泳で、規定のノルマがありそれを越えられないと卒業できない、というものでした。 クロールで25メートルも泳げなかった私。もちろん平泳ぎもバタフライも出来るようになるまで本当に時間を要しました。そして何より、100mのメドレー(通称1個メ:バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロール、25mずつ=100m)を1分40秒で泳ぎ終えないと卒業できないと言う謎の試練があり、 その課題をクリアするために、顔を真っ赤にしながらほぼ毎日泳いでいました。 それとプラスして、ベンチプレスやスクワットやデッドリフトも課題があり、(各自の体重に対してそれぞれにMAXの重さが決まる) 華奢で太りにくく、腕が長い私は、骨格的(天性的)にも筋肉が付きにくく、本当に不利で努力に努力を重ねた毎日でした。(器械体操も本当に苦手だった。ボソリ。。) 毎日眠くて電車で爆睡、常にお腹が空いていて、完全にアミノ酸摂取不足だったと思う。笑 で!このしんどい日々を支えてくれたのが、友人たちでした。特にガネは、器械体操を放課後も、つきっきりで教えてくれたり、水泳の練習にも何度も付き合ってくれたり。もちろんウェイトも。ナッチャンは、泳げず+体型が似ていたので、お互いに慰め合い励まし合ってそれぞれの成長を喜び合ったり。 もちろん他の友人たちも、全ジャンルに対して一番劣っていた私(笑)を、気遣ってくれていたような気がするなあ。で、この1〜2年(振り返ると本当はもっと長期で)仕事を通してすごく大変な状況を通っていたのですが、ジムに行って、ベンチ台に寝っ転がり、天を仰いでバーを握ると、当時の記憶がすごく鮮明に思い出されていました。 「サッチャーーーーン!上がる!!!上げろ!出来る出来る!!いけいけー!!」 みんなが私を励ます声。できなかったことが少しずつできるようになり、これが出来るようになったとか、アレをクリアしたとかを報告し合うこととか。根気と継続勝ちすることを経験した日々だったな、と。しみじみと思い起こして、過去の経験が今の私を励ましているような感覚もありました。いわゆる、「青春」と呼べるような華々しい思い出ではなく、(本当にただただ、私は落ちこぼれ枠でしたので、笑)できないことができるようになった数々をあの2年間で経験させてもらい、そしてそこにはいつもすごく親切に助けてくれる友人や一緒に乗り越えようとしてくれる友人がいたことを思い出していました。 キャリアとして、学歴と言えるような学校を卒業してないと思う。今だに「何であなたがあの学校行った?」とか、当時も学校を選ぶ時、高校2年生の時の担任の先生に「さとみ、もっと上の、四年制大学を普通に狙って行けるだろ。後悔しないか?」と言われていたことを時々振り返る。けれど、私はあの学校に通わせてもらえて、あの学校を卒業できて、最善の選択をしたと思う。あの独特な(2年間で、子供向けのキャンプのボランティア活動や、実習での運動指導など含む)経験は、私の中から無くならない本当の財産です。そして、新卒で先輩方をごぼう抜きして予約の取れないトレーナーになれたのは、あの日々があったおかげだと、確実に思います。 筋トレをすると、アドレナリン、テストステロン、エンドルフィン、ドーパミン、セロトニンも放出され、そのどれもがストレスと戦ってくれるホルモンであり、自分を幸せな思いにさせてくれるホルモンです。(ざっくりすぎる笑) トレーニングをすると、すごく不思議だけど、強くなれるような、でも同時に癒されるような感覚を得ます。 昨年は運動習慣を取り戻したことで、本当の自分を取り戻すのにも、かなり役立ったと感じています。 運を動かすと書いて運動。仕事ができる人ほど、定期的な運動をしてセルフケアやセルフコントロールが出来ている人が多いそうです。ちなみに、素直になっていく人も多いようですよ…不思議。(↑米国/英国のデータバンクから、科学的な証明が出ていますね、毎年) これからも、自分の運…と言うか「気」(発しているエナジー)の流れに責任を持ち、それを楽しみながら向上させていきたいです。 2024年は、もっと重量を上げられるようになれたらいいな。(これ以上は、エラーも出て補助が必要になってしまうので難しい…のだけど) それと、驚くほど走れなくなってるので、泳いだり走ったりもしたい!それから呼吸と柔軟性の奥深さを感じているのでそれをもっと実践・特化したい。 私の筋肉も関節も、この1年間本当にありがとう。筋肉の記憶力は最強!そしてジムで出会ったアニキたち、(絶対にこのブログ読んでないけど笑)ありがとう。本当に状況が大変だったから、泣きながらトレーニングしてた日が何度もあったけど、みんな自分に集中してる場だから、その空気感のおかげで何度も気が紛れました。そしてそして、過去の私の記憶と、当時一緒に頑張ってくれた友人たち、本当に本当にありがとう。今でもみんなとあの思い出は私の誇りです。そんなことを思った昨年末でありました。 ー2023年12月末現在 大体の目安(ベルトなし)ースクワット45kg x 6ルーマニアンデッドリフト40kg x 7ベンチプレス37.5kg x 1

ついにやって来たぜ。勝利の女神降臨。

明けましておめでとうございます! 除夜の鐘の意味はご存知ですか?108回鳴らすその鐘の意味には、人間には108の煩悩(自分の内側にあり自分を苦しめる心)がありそれを108回の鐘を鳴らすごとに消し去って、年が明けた時には綺麗さっぱりなくなっている、と言うことに起因してその煩悩も新年と共に明けてなくなりました、おめでとうございます。と言う仏教の意味があるそうです。 昨年気づいたのですが、私は108以上の煩悩によって(?)自分自身を散々苦しめて来たので笑、もうその生き方をやめる宣言をしました。だから2024年は本当の意味で、自分が自由に生きることを実践する年になります。 誰かや何かのために犠牲を払い続け、自分が犠牲を払うからこそ周りの役に立ったり誰かを楽にさせてあげるなんて、(我が子でもないのに…例え我が子であっても)健全な生き方ではないですよね。そもそも。おこがましい。 どんなに近しい身内の間柄でも、志を同じくする仲間でも、きちんと境界線を引き、相手の問題は相手のもの、解決しようとするのは相手の取り組みであって自分のものではない。このことをしっかり認識し、自分の土俵に集中し、それを楽しみたいと思います。 ある時、何年も前ですが私は尊敬する恩師から「勝利の女神」だと言われていました。私と一緒に働くと、必ずいい結果に導かれたり、いい人と巡り会ったり。強運を運んでくれる、と。 今思うとすごくおだて上手な、さすがボスの発言であり、でも実際そうだったところがあると自負があったので素敵な表現だと、嬉しく思っていました。 でもね、私がもし本当に勝利の女神なら、私自身が私を勝たせてあげなくちゃね、どんな時も。他の誰かを勝たせるのはそのずっと後でいい。 神様からの愛も、溢れるほどに受け取りまくっているから周りに流すことができる。噴水のように。自分が受け取れきれずに枯渇しているのに、周りに与えようとするのは自己破産的になっちゃう。 自分のケアより人へのケアが上手とか、やりがいを感じるとか、自分のことは後回しでいいと思ってる人は本当に危険。いつだって、まずは自分に矢印を向けよう。 この1年は、神が造られた私が私を喜び、私に憩い、そして私を100%表現していきたい。そうすることで、もっと自分を大好きになる。 人間が生きる人生の目的は、自分自身をできる限り100%発揮していくこと。どんな時も、どんな環境でも、どんな手段であっても。そうして自分から湧き上がる愛を人と交流させて、新しいケミストリーを生んで、エナジーを溢れさせること。 この目的を実践していきたいと思います。 さあ!2024年は龍の年、スピード重視で行動が大事。私の苦手分野あー!笑いらないものはいつも捨てて、ちゃんと捨てて、軽やかに昇っていきましょう!!!! いつでも、私が私の勝利の女神。

ありがとう、2023年

全然明けてもなく、めでたくもない年末年始のどん底から1年。適応障害で、このままだと長期不安障害になると思い、退職。 控えめに言って、元同僚の自分勝手で人を平気で傷つけても気づかない極度の利己的な事柄の数々に疲弊し混乱していた。(詳しくは前の投稿を。) 「悔い改め(神に向き直って気づくこと)は神様の領域だから、彼が悔い改めるのを待つしかない」と信仰のある先輩に言われ、余計に混乱した。 え、そりゃそうなんだけども。 一般常識に基づくと、誰かが誰かを傷つけたり、間違ったことをしていたらそれに気づかせるよう促したり諭したり、何かしらきちんと働きかけるのに。聖書的解釈では、悪いことをし(続け)ている人をゆるすことがベースにあって、その他のこと(傷ついた人の心や、カオスな状況の整備)は、放っておかれ、後回しなのか?と。 こういった周りの、不誠実で傍観的と思わざるを得ない対応を経験し、それらも含めて私は、この1年間、信仰とは何か、信仰者とは何かを本当に考えさせられた。結論は、別の記事に書くとして、どん底でスタートした1年前から今、どうあるかを記しておきたい。プライベートなことを数々含むので、詳細は端折るけれども、 自分が精魂込めて立ち上げた団体だったけれど、そこから去って本当によかった。少しでも自由になって本当によかった。そして長年、歪んだ聖書観が植え付けられ、それに縛られていたことにも気づいた。(スコトーマの記事が関連する)この大部分は自分の思考習慣や過去の経験に基づくものも大きく起因しており、そこからも激しく学んだ。 6月、個展をさせていただいた。それに向けて絵を描く中で、本当に私自身が油彩を描くことで癒しを経験し、励まされた。背後でたくさんの方々が祈ってくださっていたことを実感した。1月から6月は、本当にひたすら描いていた。とても心地よく幸せだった。表現することの純粋な楽しさと、これを誰が見てくれるんだろうという、未知な出会いを期待するあの感覚は、制作している時にしか味わうことができない、特別なものだと知った。7月以降は、海外への助成金の募集に応募していた。慣れない英語を読み、英語でCV(履歴書)を書き…。自分が自分を助けなくっちゃ、脱出させなくちゃという感覚があった。10月、すぐにでもある国にインターンシップをしに行かないかと言われた。その配慮がすごく嬉しく、それだけでかなり大きく期待と癒しが与えられた。 12月、新しい仕事が与えられ、面白い世界があることを知った。いろんな仕事があるなあと。職業に基線なし。一つに固執しなくてええやん、と。夢がある人たちとも多く出会い、人との出会いって、本当に不思議で尊いなと思った。自分の社会復帰のリハビリにはとても良い機会だと実感している。 また、今まで顔見知りだったあるコミュニティの人たちとも話すようになり、その時間も楽しみで、交流が広がっていることを感謝している。 そして来年、新しい仕事をしようとお声がけを頂いている。親友とLINEでチャットをしていたとき、「1年前はこんなふうになるなんて思ってた?」と聞かれ、迷わず出てきた答えは、「こうなると思えなかったけど、必ず上向くと信じてた」だった。 自分の心も体も元気になり、前というより上を向き、物心両面において上昇していることが、ただただ嬉しい。「働きたい」という思いがまた芽生え、「仕事が与えられている」という両方の状況を心から感謝している。これって当たり前のことじゃないなって。来年はもっともっと絵を描き、発表していく、絵本も作って出す。仕事のオファーを生かして、これまでの経験を活かした仕事もやる。海外に行きたい出たいと言っているけど、それは私の本心かな?どうだろう?移住とかじゃなくて、旅行で沢山の国に行けたらベストっていつも思ってるからその実現に近づきたい。 全てのチャンスに対し、感謝しそこに賭けて取り組んでいく。そして、黙ってすごく支えてくれている母に、2023年、心からの感謝のMVPを贈りたい。 「全身全霊で自分の人生を立て直す」と宣言した1年前の私へ、これからは軽やかに、でもこの宣言は活かしたまま、最良の人生を生きていこう。必死になって与えることより、ただただ、感謝して受け取り満たされながら。昨年とは真逆で、感謝いっぱいに2023年を締めくくれることを全方位に、心から感謝します。

ゆるしと正義と女性たち

今年1年を振り返ると、この1年は自分に対する学びとその収穫がとても多かったとすごく思う。昨年の今頃は、適応障害(原因が明確な鬱症状。鬱病ではない)を既に発症しており、年明け以降も記憶がない。信頼し長年共労していた友人が驚異的な自己中心的人格者であると認識し、長年の忍耐の緒が切れ、これまでの自分の選択は正しかったのか、本当に私の信じている神の真理に則しているものを行なっていたのか、甚だ不安になっていた。 この件については、spiritual abuse という部類に属する話で、日本ではまだまだ取り上げられてないし今後も扱われるのが難しいハラスメント(虐待)に関する話です。(旧統一教会で話題になっていた人々の苦しみは、これに該当する。決して、人間関係の問題ではなく、被害と加害の問題であることを覚えてほしい。) いわゆるパワーハラスメントと掛け合わせて、人の純粋な信仰心を利用し、自分の利益のために人を動かそうとする人が存在する。本人は「自分の利益のため」ではなく、神の栄光のためだとか、人様の役に立つためだと表明している。しかし、苦しむ人の存在を見て見ぬふりをしたり、自分の正当性のために事実を捻じ曲げ平気で嘘をついたり、善悪ではなく自分の損得で物事を判断し、過大な評価を求め、人の気持ちより目標の達成や利益追求に走ることから、究極的な利己的であることは明白である。 私が、いち福音信仰者として、このような経験をしたことをこうして不特定多数(ぁえ?少数?笑)に発信し、文章に残すことを不快に思い、私の信仰やモラルを疑い否定する方もおられることだろう。「人間として未熟である」「まだゆるせてないんだ」「さっさと忘れなよ」「痛々しい」とかなんとか。 私は、そのようなご意見に対して真っ向から反論する。(現に、「彼をゆるしてください」とか「人や教会を見たらあかんよ。神様を見んと。」とか言われたけれど、すごく的外れな助言だ。) 性被害に遭った伊藤詩織さんが、実名で顔も出してその事実の酷さ、また検察や警察の不当な扱い、この世界の傍観的不条理に対し異論を訴えたとき、 多くの人が彼女に対し 「悲劇のヒロインだ」とか「だったらあの時もっとこうできたでしょ」とか「無防備だったからいけなかった」とか…もっともっと酷い言葉をかけて彼女をより一層苦しめた。(これをセカンドレイプと言う。) またあるいは、旧統一教会問題で矢面に立った小川さゆりさんは、不当さを発信し、同じように苦しむ人を救いたいもうこういった宗教は無くして被害者をこれ以上増やしてほしくないと強く願い、ただその純粋な思いだけでメディアに出ていた。けれど、売名行為だとか(一般人で仮名の彼女が何のために売名するのよ?)、悪魔だとか、これまた悲劇のヒロインぶってるなど、散々なこと、しかも関係のない夫の有る事無い事まで言われていた。。 だ!か!ら!(大声)、だからこの世界から、ハラスメントが消えないんだと思う。 なぜ、彼女たちは苦しみを受けた純粋な被害者であるのに、その経験を黙っていろと言われなくてはならないのか? なぜ、黙っていることが慎ましく賢く思慮をわきまえた人格者のようにみなされるのか? なぜ、事実を知ってもらうことで、どこかに存在するこういった被害者が「自分だけじゃない」と思えるチャンスや存在を消そうとするのか? なぜ、平和を求めて人々の道徳心を活気させ、悪に蓋をせず、正義を唱える人を容易く非難するのか? なぜ、人が人にゆるしを強要し、自分にだって非があるじゃん、と言えるのか? これらの「なぜ」に対して一つ思い浮かぶ答えは、人の気も知らずこういうことを平気で思えてしまう人は、きっと、本当のゆるしを経験していないのだと思う。ゆるされるという稀有なあわれみも、ゆるすという勇敢な神秘も、味わったことがないのだ、と。 被害に遭っている彼女たちのしていることは決して、復讐ではない。そんなみみっちいことのためにあんな馬力を発揮し、人生の多大な時間を費やす犠牲は払えないだろう、どう考えても。ゆるせていないとか、そんな次元ではない。社会に対して、人間の公正と平等と平和と正義を訴えたい、と言う切実で強固な情動があるのだろう。 私はこのような人々の犠牲を伴う正義を考えるとき、そこにこそ、神の真実さを見る。ゆるしの神である一方で、そのゆるしが深ければ深いほど、正義は真っ当で正しいはずであり、それを徹底的に示されるのが神であるはずだ。 今、香港人の周庭さんが香港当局から指名手配をされている。彼女の場合は暗黙の被害者であり続けている。言論の自由と真実を社会に訴えて非難され、犯罪者扱いをされ、亡命するなんて。 そして、どの人たちも女性である。(故意的に女性をピックアップしたわけではない。)古来から続く、歪んだ男尊女卑思想は、罪と共に人間に組み込まれたDNAのようである。 …この記事の結論は、私が受けたことや感じたことも、地味に地道にここに記していく、その表明です。なぜならとても衝撃的な経験だったので。同時に誤解されやすい事実だから、自分の活字で残しておきたい。そして願わくは、同じような葛藤を持つ人の目に、いつか留まることができたら。。。 それから、福音信仰者として、間違っていた自分の大きな罪についても記していきたいと思う。読んでくださる方々と、ただ純粋に信仰とは何か、信じるとはどんな意味を発揮するか、そしてそれを守り生かすことは何なのかを分かち合いたいと願っている。

ザカリヤ「神は覚えておられる」

クリスマスの主役はイエスキリスト。どんな映画にも名脇役がいるように、クリスマスの物語にも、素晴らしい脇役が登場します。けれどその人生を生きた彼らにとっては、自分自身が主人公。そしてそのどれにも、神様の素晴らしい約束が隠れています。 「マリアの受胎告知」は絵画を通してもよく知られていますが、 その前に登場する、自分の妻の受胎告知を天使から受けたおじいさんのお話しはあまり知られていないかもしれません。 ザカリヤという年老いた祭司について。 その前に、、、ーあなたは、願ったこと、祈ったこと、全部諦めずに神様に期待し続けていますか?ー… 祭司であるザカリヤは、神殿で仕える働きに選ばれました。これは一生に一度あるかないかの光栄な仕事です。 神様は老祭司ザカリアを選び、その仕事の最中に「恐れることはない。あなたの願いは聞き入れられた…」と、天使ガブリエルを通してザカリヤに語られました。 「恐れることはない。ザカリヤ。あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベツは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(ルカ1:13) これに対してザカリヤは「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えます。この反応は疑いであり、喜びよりも不信です。 「何によって」とわかりやすい証拠をすぐに求め、叶えられない理由を挙げました。 子供が生まれない家庭は蔑まれる厳しい文化の中で、彼とその妻は、社会的に何年も何十年も苦しんだことでしょう。しかも祭司職に就く彼にとっては、周囲の人々から「祭司なのに子が与えられないなんて、他に何か悪いことをしたんじゃないか」など、陰口を言われていたことでしょう。 きっとだからこそ、これまで何度も熱心に捧げた「子をお与え下さい」という期待の祈りをすっかり忘れ、諦めてしまっています。今、祈りの実りが訪れようとしているのに、当のザカリヤは、あまりにも常識的、人間的な判断で御言葉の約束を理解しようとします。 「ザカリヤ」という名前の意味は、「神は覚えておられる」。 神に祈ったことや、自分の願ったことさえ、忘れて諦めているザカリヤ(私たち)の代わりに、神は覚えておられるといいます。 神様は私たちの祈りを全部覚えています。 それどころか、子供の頃にぼんやり思った願いや、日々のつぶやきや、嘆きをも。 でも、自分の経験と世間的な思想や物差しで現実を理解する私たち。 神様はこう言います。 「わたしの言葉は、時が来れば必ず実現する」と。 「覚えておられる神」であるが故に、私たちのことを決して忘れず最善の方法で最善の時に、愛なる神は必ず応えてくださる。 その「時」は私たちにとっては遅いと思えても、そこに叡智なる最良の恵みが隠されています。 このクリスマスへ向かう期間(アドベント/降待節)に、過去に願ったこと祈ったこと…それらをもう一度思い出して、神様に呼びかけ祈ってみるのはどうでしょうか🎄🌟🕊✨ そして今日は太陽の復活日とも言われる冬至です。クリスマスと冬至は歴史的文化的に、深いつながりがあります。1年を振り返り、不要な思い、習慣、関係、物は、さっぱり断ち切って、新しくされる喜びに向けて歩み出しましょう〜♪

霊媒師クマリという女

サンスクリット語で処女や少女という意味を持ち、生きた神として祀られることもある存在のことを「クマリ」と言う。 生きているうちに、占い師に会う人は沢山いるのだろうけれど、霊媒師に会う人はそんなにいないのではないだろうか。 私が20代前半だった時、クマリという40代中頃の女性に出会った。バリバリの関西弁を話し、成人した4人の子供がおり、DVの末に離婚している女性だった。誰とでも気さくに話す彼女は、いわゆる霊が見える/感じる人らしく自分に霊をおろして、体が震え、低い声で英語を話したりしていた。 不気味な話である。笑 当時、私はすごく彼女に興味をもった。彼女は将来のことを占うことはできず(本人曰くやってないし、やったところで占いは意味がないとのことで)、過去のことを言い当てることができた。私が過去にどんな経験をし、それによってどんな思いをしてきたかを、まるで映像が見えるかのように彼女は私に説明し「こうだったでしょ?」と言った。それらはその通りで、私は驚いた。 彼女の仕事は、悪霊という、(彼女曰く)誰の心の隅にも存在する悪い習慣を持ち、その体の主に悪影響を及ぼす霊を取り払い、本来のその人自身を生きて人生の目的を果たすための助けをしているということだった。 出会った当初から彼女が霊感のある人であることはわかった。その頃は普通の感じのいい人だったけれど、のちに自分の霊感をどんどんがめついビジネスに変えていった彼女は、最終的に自分をグル(指導者、教師という意味)と呼びなさいというようになった。 彼女の両親は日本人であるが、魂の親はインド人であって、そのインド人のお父さんが自分に乗り移るというシーンを私はよく見てきたし、彼女も「父がこう言っている」とよく主張していた。 ばっかじゃねーの?え、なにその話?と思うかもしれないけれど笑、私は彼女の悪霊払いの力(いわゆる霊能力)も彼女の言葉も信頼していた。 子どもの頃から「神様はきっといる」「科学的に証明できない力や存在は確かにあり、この世界や人生を構成しているのではないか」と思ったり父が亡くなっていたことで「霊に会ってみたい」と思ったりしていた私にとって、彼女の能力や話す言葉は魅力的だった。 私を知る人はよくこの形容詞を用いてくれるのだけれど、私はすごく「好奇心が強い」と思う。ムカつく人や合わない人と出会っても関わらないようにすると言うより、「なんでそう思うんだろう?」と知ってみたい欲が勝る。子供の頃から母に質問すると、「なんでって聞かれても知らないわよ。変な質問してこないでよ。笑」と、しょっちゅう困らせていた。 認識として、自分には人生に対する大きな欠乏感があったというよりも人間の本能に則した未知に対する興味と疑問の餓え渇きを満たすものに、その時まだ出会っていなかった。 クマリは、とてもユーモアがあり、ウィットに富んだ会話もでき、知性もあり、思いやりのある人だった。 私の心の中の理解されにくい感情や、生死への疑問を彼女は、優しく、興味深く答え、私を慰め、励ましてくれた。それは彼女の周りにいる人たちに対してもそうだった。それが一時的な振る舞いだったとしても、非常に親身であった。 また彼女は母親として、自分の子供たちのことをとても健全に愛し誇りに思っており、子供たちと友人のような信頼関係を築いていたし、子供たちも彼女をえらく尊敬していた。 そして彼女の生い立ちは、かなり過酷で、今だに私が知り得る人々の中でもトップに入るくらいハードな人生を歩んできたのではないかと思う。彼女の言葉や振る舞いには、だからこそのしなやかな強さや思慮深さや暖かさがあるように、私は感じ受けていた。 心のキャッチボールが上手く、投げてほしいところに投げてほしい時に投げてほしい球を投げてくる、そんな人だった。 あれから10年以上経つし、その間私自身すごく色々な人に出会い、様々な関係を築いてきたけれど彼女は人の心に入ってくるのが一際上手だった。(声も印象的で、澄んで通る綺麗な声だった。時代に合わないソバージュの髪型やファッション、話すことは関西のおばちゃん感が満載だったけれど…。) 彼女を詐欺師だと言えば、そうだと思う。どこまでが本当だったかなんて知らない。 けれど生い立ちを含む素性まで簡単に嘘をついて偽ることに徹していた人ではなく、本当に霊がわかる人であり、本当に霊媒師としての能力があり、それゆえに高慢に変わっていった人なのではないかと推測している。 余談だけれど、私は彼女を可哀想に思う。霊を扱っているように見えて、完全に霊に遊ばれ、霊の奴隷になっているからだ。霊がわかる人、感じる人は沢山いると思う。けれど、謙虚に付き合わなければ主導権を握られてしまうものだと言うことが、今はわかる。 私はこの出会いと、そこから始まる不思議で「普通」とは言い難い経験と新しい数人との出会いを通じて、人は老若男女、霊の世界に興味があって、真理を知りたくて、自分らしさを100%発揮しながら人生を謳歌したいと願っているということを身をもって知った。 そして、こうやって仕事を得る人もいるんだということや、悪霊の存在も。(ちなみに、悪霊払いの話しをすると、「それはヤラセだ」と友人に言われてきたけれど、そうではなく、まじでエグゾジストみたいな現象を見た。これは彼女が私(や、他の人)に恐怖を植え付けるために見せたのではなく事実としてアクシデント的に見てしまったもので、虚像ではない。) で、結論として何が言いたいかというと、真理を知るのにお金はいらない。自分らしく生きるのに、誰かや何かを頼ったり、遠回りは必要ない。 今自分が好きなことに対し誠実に100%で生きていくことが、最大の魔除けであり、真理に生きるために必要なことである。 そしてその自分もこの世界も悪霊さえをも完全に司っているのは、聖書の神である。この神に出会う過程にこの出会いがあったからこそ、理解できること、経験が知恵に昇華したこと、闇雲に霊的な存在を否定/嫌煙したり美化したりしないことなど、実体験の学びによって、聖書の辻褄が合うと思うことがすごく沢山ある。

人生の法則の中にある復活の希望

すべてが終わり、壊れたと実感する時を多かれ少なかれ誰しも経験する。壊れて失ったものが、自分の腕の中で大切に育んできたものなら、その代わりに大きな悲しみを抱かなければいけない時間がある。その時間は、人や物事によって違う。何分か何時間かで解放される人もいれば、何ヶ月か何年も時間を要する物事もある。 あるいは、もうどうでもいいはずなのに、何かががきっかけで思い出すこともある。 「手放せばいい」とはよく言ったものでそれが自分の意思かどうかは関係なく、一度抱いたものを引き剥がすのは難しい。疑問や悲しみが湧き上がり、感情の整理が間に合わず、答え合わせに苦しむのである。 一生元に戻らないと理解しているにも関わらず、手放すことがなかなかできない。 なぜか? (それは大切な人の急死であっても、憎むような事件であっても、)苦しんでいるにもかかわらず、その感情や経験、あるいは関係を手放したら、大切な自分の一部を失う気がするからだ。だから痛いしこわい。本当はそんなことはないのだけれど…。むしろそれを失った方が自分らしく身軽になれることがほとんどかもしれない。 脳は習慣に依存/帰属する習性があるので、そこから変化することを決めるのは一般的に難しい。でも、このような絶望的な大きな変化のことを「強制終了」と言って、「もうその生き方/考え方をやめなさい」という自由がきたサインだと謳う人は昔から多い。 大ピンチこそ、大チャンス。 そしてこれは本当にそうだと思う。自然の摂理というか、一般的な恩恵として、多くの人がこの人生の法則を知っている。それが真実であるなら、いつまでも悲嘆に暮れているのはタイムロスでしかない。 ただ、そうやって自分や周囲が「タイムロス」と思っている時間こそ、貴重なリカバリー期間であり、自分を取り戻して新しいチャプターを開くために必要な調整時期なのだと思う。 不死鳥は、自ら炎の中へ死に行き、もう一度生まれる。燻っている炎ではなく、ごうごうと燃える炎の中で死に絶え、自ら卵の殻を破り、弱々しくけれど大胆に大きな翼を広げて生まれる。 私たちは「自分の意思」とは思っていなくても、「このままじゃダメだ」という時、物理的には外的要因(自分の望まない道筋)によって、しかしある意味で自ら望んで、燃え盛る炎の中に突っ込んで死にに行くのかもしれない。 そうやって軌道修正しなければならないハードな道を通った人は、必ずその人なりに復活し大成すると、多くの経験者は言う。 知人の東洋算命学の博士曰く、「人生で深い谷を経験する人ほど、その分突出して風に乗って舞い上がる時を迎える。逆にアップダウンのない、平坦な人生の人もいる。けれど、それはそれで退屈かもしれない。これは単なる占いではなく統計学的に、人生にはそのような法則がある」と。 創造美の思想(本来この世界は美しく、戦争などは間違っている/悪であると、自然と思いが湧き上がる)と同じように、復活の希望は、私たちのDNAの中に組まれているのだと思う。 神様が人を創ったのだから、神の法則としてのドラマが人生にあるのは、至極理にかなっている。 だからこそ神を知り信じる者は、 癒えない傷はなく、明けない夜はないことを身をもって経験しながら、神を立体的に喜ぶ者に造りかえられていくのだろう。

人生の価値

今、あることのためにCVを書いているのですが、私が過去にアントレプレナーセンターという会社で公認ゴーストライターとして携わらせていただいた商業出版の数は14冊でした。 約3年+ちょっとの期間で一人の著者(+私)が14冊出版する、しかも著者の仕事は作家業がメインじゃない、そして二人とも全国各地の出張が多いって、驚異的だと改めて思います。 全タイトルと出版社を英語表記で書き換えるためにAmazonを見返していたのですが、なんとまあ、レビュー数が多く、その内容が本当に優しい世界で…素晴らしい…。 本当に人間性の高い受講生様たちや読者様、周囲の方々に恵まれてきたことを心からありがたく振り返っています。 そして、当時20代前半の私、多くの皆様方にゆるされながら優しい世界で働かせていただいてきたな、と実感します。 口の利き方といい、態度といい、生意気だったなー、と。(再会して謝れる方々には謝っています。汗 でもそれ以上に感謝なんだよなあ…) そしてこの会社での経験によって、もっと思うのが、すんごい働いてたな、と。この会社を退職した後も、無茶苦茶頑張ってきたな、と。休みって何?の世界だったな、と。仕事だからって色んな(身内含む)誘いを断りまくるのがデフォルトだったな、と。 努力、忍耐、根性、諦めない、、、、そういう苦しい精神論で自分を律しすぎてきたな。 でもそれは誰のせいでもなく、自分自身がその人生や生き方を受け入れ、生み出し、「そういうものだ」と自分の世界観を創ってきたからだとつくづく思います。 それによって得たことは大きかったけど、へりくだって静観すると、失ったことや逃したことだって同じようにあったことでしょう。 1年前の年末年始にがっつり大変な状態(適応障害と言って、原因の明確な鬱症状)になり、そこからすんごい思うのが、もうがんばんのやめよって。生き方変えよって。強く思っています。 でも一つ言えることは、頑張ってると本当に助けてくださる人がいる。というか、助けてくれた人が本当に本当に多く多く、過去振り返ると必ず現れてきました。(助けてくれることを期待してやっていたわけではなく、がむしゃらでしたが…) だから今度は自分がそういう人、つまり助け支え導く人になろうという心構えでいました。 でも、そういう思いを利用し、一番親しいと思っていた友人に、こちらが苦しいと意思表示をしても助けてくれないどころか、本人の利益のためにもっと追い込んでくるという驚異をこの数年で経験していたことに気づき、そういう人間が存在するのも確かだということを身をもって知りました。 それによって、私が20代で出会ってきた人たちの徳の高さというか受容力って、本当に寛大だったなってつくづく思うのです。。。 でも出会いって選べないから交通事故みたいなものでもあり、その事故からリカバリーする中で、前よりもっと視座が高まり進化が生まれてくるのだと信じています。 その答えが、もう誰かのためとか、夢とか人生のために、がんばんのやめよってこってす。楽しまなくちゃ。喜ばなくちゃ。今この瞬間を。 人生は今にある。今しか人生ではない。(じゃあ過去の話すんな笑)未来のことを期待しても不安に思っても、今にとっては起きていないから価値はないに等しい。過去は終わったことだから、何度思い巡らせても起きたこと以上の意味はない。今、ワクワクすること、今、楽しいこと、今、嬉しいこと、、、 そして 今、悲しいこと、今、苦しいこと、今、痛みを感じること、、、そこに集中し味わい尽くすことが人生を充実して生きる秘訣だと思う。それらは決して刹那的に今が良けりゃそれでなんでもいいということではなく、今を大事に生きるとは、その時々に感じる自分を大切に生きるということ。 そんなことに全身全霊を集中して生きていく時、人生が充実してくると実感します。 今、ここにあるもの。 それが人生の価値。

幸せの価値観

ある人がこう言っていた。「高校の同窓会に行ったら、それぞれに割と壮絶な人生を過ごしていたのがわかった。それで、自分は幸せだなと思った。DVにもあったことがないし、苦しんで離婚してシングルマザーになったわけでもないし、借金で大変な思いをしたこともないし、壮絶な病気や事故を経験したわけでもないし、すごく幸せだなって思った」と、自慢げに話す表情は、勝ち誇っているようにも見えた。 私は思った、この人にとって幸せとは平凡かつ物質的に満たされて、可もなく不可もなく生きることなのだな、と。 起きる出来事や、自分が手にする(あるいは失う)ものによって「幸せ」をはかるのは少し浅はかだと思う。そして、幸せというものは、人と比べるものではないから、DVにあっていようが病気や事故を経験していようが、苦しんだ末シングルマザーでいようが、借金があろうが、幸福度が高い人はたくさんいる。というよりむしろ、そういうことを経験してきた人だからこそ、本当の意味での幸福度は人より高い人が多いように思う。人間としての豊かさや、しなやかな強さが備わっていて、ゆるすとか乗り越えるとかいうことを理解しているからこそ、養われる感受性もあるのだと思う。 私の思う健全な幸福の価値というのは、「社会(親と子という小さなコミュニティも含む)の中で感謝され、感謝する」というエネルギーの交流が生み出されている状態であると思う。(ちなみに感謝という感情は、この宇宙において最高最強の周波数を放つという。) SNSが普及し、容易に不特定多数に対し、自分の容姿や持ち物、時間の使い方や思想発言、仕事の内容、家族や友人などの人間関係などを通して、人生の豊かさや魅力を表現する時代になったと思う。だから安易に人は「この人幸せそう」と思いやすいし、そんな人に対して憧れを抱くのだと思う。わかりやすいから。 けれども、その人がどんな背景を持っているかはわからないどころか、そこにある幸せっぽいものというのは、移ろいやすい刹那的(極めて一時的)なものであることがほとんどではないかな。 幸せの基準をこういうものに乗っ取られてはいけないと、私は思う。自分が幸せだと感じるならそれでいい、という意見もあるし、私もそれに対して異論はない。幸せはいつも自分の心が決める byみつを に、同意である。 けれども、「起きた出来事」「持っているもの」「自分の現在の状態」(英語にすると全てhaveやgetに集約できる)に、真実な幸せの動機を見出すのも違う気がする。 もし今、何かの理由で幸せを感じられない人がいるとしたら、自分にできる小さなことで感謝されたり、自分に起きた小さなことに感謝してみるといいかもしれない。感謝の交流のダイナミクスに入っていく時、私たちは、本当の豊かさや喜びから真実な幸せを感じることができるだろう。 私自身、すごく恵まれているのに「全てに感謝できない時」を経たからこそ、今改めて感謝することの大切さとその根源の大きさを想う。

心理的盲点から学んだ私の改心

苫米地英人氏(脳機能学者)の著作を読んだ。人間には誰しもスコトーマ(=心理的盲点/盲目さ=本当は見えているはずなのに意識/興味が向かない、見えてない)があるという内容から始まる。 このスコトーマは、当人の経験や思考グセからくる思い込みや幻想から発端し、事実を捻じ曲げたり誇張したり過小評価したり、情報の取捨選択を勝手に行う。 現実や事実は同じでも、解釈の違いによってその出来事の意味合いが人によって変わるのはそのためだ。そしてそのスコトーマをズラさない限り、人は成長が遅くなり、機会損失をしたり、落とし穴に落ちるような経験もしかねないのだという。 ではスコトーマはどうやってズラすことができるのかというと、コンフォートゾーンから出るというのが重要らしい。 (コンフォートゾーンは、文字通り自分が居心地がいいと感じる環境、慣れ親しんだ関係、安全だと認識できる心理的範囲のこと。自分に都合のいい生ぬるいものだけでなく、強みを最大限に発揮できる場も、これに当てはまる。) 未知の世界に入る時、再度自分は何者であるかを認識しなおし、そして周りにそれを表明することは、脳の活動にとって非常に刺激的であり、自分を認識する(いわゆる自己愛に通じる)には大切なプロセスであると言える。 面白いことに、スコトーマのほとんどが欠点や弱点によって生まれるのではなく、長所や強みやから生まれる。スコトーマによるビリーフ(信念)が、自分にとって安心や安全を感じながら(それは、一般的に誰もが安心安全であると支持するものではなくても)成功していく機会を作ることもあるのだという。 著書の中に堀江貴文氏がなぜ逮捕されるに至ったかという話があった。堀江氏は回避できたはずのことを周りから散々指摘されていたらしい。けれども、「自分は有能で正しい」というスコトーマが彼をワンマン経営者に至らしめ、結局盲点をつかれた結果監獄送りになったという例話があった。 著者は、このスコトーマをズラすときに、謙虚さは必要ないと言う。ただ客観的に一歩引いて現実と自分の関係、周りの状況を見ることでコンフォートゾーンからいつも離れる意識をし、実際に勇気を持って少し離れるようにする、と。でも心理的に考えて、その行為はまさに「謙虚」であるということが鍵だとわかる。 正直なところ、本当の意味で謙虚な人というのはなかなか出会わない気がする。(自分が謙虚じゃないからか?!)歳を重ねるほど、謙虚っぽい人はいるのだけれど。「自分なんてまだまだです」みたいに、ただ自己卑下するのでもなく、わざと相手を立ててペコペコするのでもなく、本当に等身大のままで謙虚な人が最も強い。 謙虚でいることは、自分を的確に知り、優越感にも劣等感にも浸らずにどこにいても誰といてもそのままの自分でいられるということ、だと思う。謙虚でいるとき、人はリラックスした状態でもっとも勇敢になれる。なぜなら、虚栄心も恐れもなく、ニュートラルな心で柔軟に相手や物事に対して客観的にチャレンジできるから。リラックスした状態の時、人は最大限の力を発揮することができると言われている。(スポーツの世界や音楽の世界では通説ではないだろうか。。。) 私の中に長らくあったスコトーマは、自分は何かをしているから/人の役に立てるから/必要とされるから価値があるという根深い思想だったように思う。有能であれば、多くの人の役に立てる、だから頑張るみたいな不毛のサイクル。 でもそうじゃない。 何もできなくても、役立たずでも、必要とされなくても、人(私)には十分に価値がある。 もし自分が交通事故にあって、本当に今と全く違う生活を送ることになったり、何か病気によって人の役に立つどころか人がいなければ生活することができなくなったりしたら、すぐにそう思えるほど自信はないけれど。。 でも、このスコトーマに隠れている真理は、「あなたは何もしなくても愛されているし、愛されていい存在である」ということだ。 この真理を当たり前のものとして傲慢に捉えるのではなく、謙虚に信じ、ここに立ち続けたい。その瞬間の私たちはもっと自由に、もっとリラックスして、もっと勇敢になれているはずから。 あなたのスコトーマは何ですか?